2011年6月24日金曜日

いまをどう考える?

いま読んでる本、神の火・高村薫。原発事故に見舞われた現実をズバリ予測していたかのような文です。
すべての科学技術は本来、その運用に当たって完全という言葉は使えない人間の所産に過ぎないが、いったん壊れたら最後、周辺地域が死滅するような技術の恩恵を、人間はどれほど受けてきたというのか。原子力は、人間にどれほど必要な代物だったというのか、そう思い至ると、島田は回復不能の懐疑の闇に陥った。

本日配信のメルマガにも、100%共鳴するものがありました。無断で引用させていただきます。


いまは、長期的な構想を練るのに相応しい時期なのだろうかと思います。千年に一度の大地震に襲われたような異常時に、今後の国家の行方を縛るような重要なことは、何も決めない方が良いように思います。(略)異常時には、特殊な現象に興奮するのではなく、極力平静を保つようにするべきではないかと思います。

日比谷Pホテル前に咲く
その意味で、危惧しているのは、例えば、復興構想会議での「東日本大震災により、我々が文明論的転換を迫られているのは間違いないように思える」という提言です。復興の精神・山内昌之という本のなかにあった「世界史でも屈指の高度成長の成功を経験し、時として爛熟の極みまで達する消費文化に酔いきった日本人は、大震災をモメントとして新たな歴史が始まったことを理解するはずだ」という文章にも、違和感を覚えました。

それよりも、同じ本にあった養老孟司氏の「私自身はその日もそれ以降も特別なことはしていません。周りがうるさくなってくると静かにする。ブレーキをかける。…戦争で懲りているのです。ああいうときは、『こうしろ』『ああしろ』『言ってはいけない』『やってはいけない』という奴が必ず出てくる。…何か言うと、必ず『敵か味方か』というように決めつけられてしまう。…普段と同じように淡々と暮らしています」という言葉に納得しました。
(略)  
私は、「復旧」については、何の異論もありません。万難を排して早急に実現すべきだと思います。ただ、なぜ、被災地の復旧が、日本の再生につながるのか、あるいは、つなげなければならないのか、私にはよく分かりません。「国民全体が共有でき、豊で活力ある日本の再生につながる復興構想」を、東日本大震災をきっかけに、なぜ、考えねばならないのでしょうか。
真夏の暑さがくる前に被災地では異臭、蠅、熱中症といったことが問題視されています。いまやるべき喫緊の課題は「復旧」です。復興構想に基づくユートピアを語るのは別の次元のことです。

0 件のコメント:

コメントを投稿